昭和42年9月4日 朝の御理解
神の機感にかのうた氏子が少ない。・・・これは、御理解の中の一節の中のまた、一節でございます。神の機感にかのうた氏子が少ない、と・・・。例えば身代が出来ても、後を継ぐ者がない。継ぐ者があっても、身代が出来ても、体が弱い。病身にある。という様にその、人間の幸福になって行くためのいろんな条件がだんだんそろって参りましても、互い違いになりましたり、致しましては、神の機感にかなった氏子と言えない。ね。人間も出き、。身代も出来る。だんだん子孫も繁盛して行く。それに、継いで行く者も出来る。そういう者が三代続いたら神の機感にかなった氏子だとこう仰っしゃる。ね。ま、いうならば金光教なんかは、そうでございます。ね。人間と身代と達者とこの3つが足ろう。しかも、それが、三代続いたら、神の機感にかのうた氏子と。皆さん、どうでもひとつあの、願わしてもらうならそういうおかげを願わなければいけないと。信心しておりましてもね、もう、本当に、大変おかげを受けて教会の幹部とか、総代とかされて、有名なご信者さん方がおられましても、ほんなその人一代限り。息子さんは、信心はせん。いわゆる、もう孫さんの時代には、陰も形もないと言ったようなものがある。ね、ですから、どうでも、一つのその、皆さんが頂かれる信心が子供にも孫にも伝わっていく。しかも、身代も出来ていく。しかも、病気、災難の根が切れて、いよいよ繁盛一途を辿っていくという様なおかげを頂かないかんのです。ね。それにはです。やはり、信心は、井戸替えをすると同じことだと、こう仰っしゃる。水が濁っておる。どうして濁っておるじゃろうか。と、やっぱり井戸替えの必要があるんですよ。ところが井戸替えを始めますと、今度は、もっともっと、濁ってくる。もう、あと、水がちこっとばっかしなったら、今度は瓦やら、そんないろんな物が落ち込んでくるからですね。そういうのが一杯。もう、最後には、臭う様になってくる。ね、そこで、これは、信心したっちゃ、こげん濁って来るなら、これは、かえって悪かと言った様なことで、信心を止めてしまえばもうそれまでなんです。ね、ですから、そこんところを私は、その井戸替えの七分八分で止めてしまえば水はいつまでも、濁っておる様なもんじゃと仰っしゃる。いつまでも濁ったわけです。ですから、お道の信心をさせて頂く者はですね、もう本当にそこんところの性根を据えての信心をなさらなければいけません。本当に井戸替えをするごたる気持ちでおかげを頂かなければいけません。ね。ならその井戸替えをしておる。いつもその、きたない水が出たり、いろんなものが上がってきたりする。困ったことばかりかというとそうじゃないです。ね。信心させて頂いておれば本当にありがたい。神様の御守護の中に、こうしておかげ頂いておるということが商売の上にも、お繰り合わせを頂いて、健康の上にも、おかげを頂き、お願いしたことが、あれも成就、これも成就という様に、信心のありがたさと言ったようなものが自分に内容が変わって来るに従ってありがたいものが、出て来る。そういうありがたい、ありがたいという信心を体得しながらおかげを頂きながらです。そんところのおかげを頂いていく。神の機感にかなう信心。ね。そして皆さんの一代でですたいね、まあ、財産も出来る。人間も出来る。ね、本当におかげ頂きましてから、ご信心させて頂く様になってお医者さんの薬一つ飲んだことがざいませんという様なおかげになって来なければいかんです。ここでは、そういう人達がだんだん出てきたですね。もう、以前は、その信心がないまでは、毎年、毎年、薬代だけでも、この位払いよった。信心を頂くようになりましてこのかた、もう、本当に薬代という薬代はもう、ほとんどいらん様になりました。近年は、一つも医者にかかったことございせん。という様なおかげを頂いておる。おかげを頂くんですよ。やっぱね。ですから、それには、やっぱり人間が出来て行かなければ出来ません。どこに出しても、なるほどと合点がいくような人間が出来ておる。ね。それに私は、健康のおかげを頂いておる。人間と身代と達者。そこで、人間と身代と達者のおかげを皆さんがまず頂いてです、こういうおかげを頂くためには、こういう信心をしなければならぬのぞという信心を子供に伝えておかなければならない。と、お母さんが信心を始める様になってから、このことは、こういう様々な広大なおかげを頂いていくと同時にね、あなた達から見てお母さんはどうじゃろうか、お父さんはどうじゃろうか。ね、信心は、なるほどしなさるけんで、どこか、違う様なのが、出来てきたと、言う様なものがです。子供達にも、分かってもらえ認めてもらえる様なおかげを頂かにゃならん。
人間と身代と達者とが三代続かねばならぬと、まず、初代であるところの皆さんがそういうおかげを頂かなければいかんとですよ。ね、そしてそれをです。こういう信心をさせてもらってこの信心を頂いておれば、これが段々、いわゆる、親の代より、子の代。子の代よりも、孫の代、日勝り、月勝り、年勝り、代勝りのおかげを受けられるんだというものをですね、皆さんが作って頂かにゃいかん。いよいよ神の機感にかのうた一家として氏子として、おかげを頂いてもらわなければ。それには、やはり井戸替えをする様なものでと仰っしゃる様な井戸替えをしっかりと、でけなければいけないと思うのです。お願いしよったばってんか思うごつならんじゃった。んんや、こげな災難がありよった、と。
それこそ、今こそ、井戸替えが出来ておる時と思うて、一生懸命励まにゃいけませんしね。そこでです。私は神の機感にかのうた氏子ということになると思います。まず、なるほど、あの氏子は、まだ、健康でもない。身代も出来てはない。人間もなら、完璧という程に、出来ては、いないのだけれどもね、あの、氏子は、本気でそういうおかげを頂きたいと願っておる。と、本気で、人間も変わらねばね、本気で、改まらしても頂こう。磨かしてもいた頂こう。本気で、信心によっての幸福を頂こう。という様な本気での願いと言うものが立てられる時です。わたしは、神の機感にかなう氏子としての第1歩が出来たとでしょう。皆さん、そういうふうに、思うておいででしょうか。ね、まず、なんと言ってもまず、人間を作らにゃいかんです。ね、本当に教えに基づいた信心生活させて頂いて本当に私自信が変わる。私自信が神様に認めて頂ける様な私になろう。そこで、私は、ね。まず、人から認められなくても、神様から認められたい。よし、人が笑うても、神様から笑われる様なことがあってはならない。こういう私は、気持ちをまず作ることが信心は、第一歩だと思うですね。人が笑うから。もうこうすれば、神様が喜んでくださる。こうなれば神様が認めて下さることは、分とってもです。まず、人から先に、認められようとする。自分をです。まず、人から先に、認められようとする。自分を質問してからでも、認めさせようとする。的なことを言うたりしてからでも、人に認めさせようとする。これでは、いつまでたっても、神様から認められる様なことはない。いわゆる、口に真を語りつつ心に真がないわけですから。ね。誰が知らんでも、ええ。いや、知らんどこじゃなし、笑われてもかんまん。神様から笑われちゃならぬ。ね。私は、そこに、なって来ないと、信心の尊さというものは、出来て来ないと思うです、ね。誰しも、認めてもらうことは、いらん。神様のご承知の世界に、本気で、美しゅう、真心一杯で、そこんところを生きぬいて行こうとする精進。まず、なされなければならないのは、そこだと、こう思います。そういう様な状態。そういう様な姿というものはです。んなら、例えば神様がまあ、言うなら、認めて下る様な状態がです。もし、今度は、人がそれをまあ、目撃した場合、その様な場合、人がそれを知った場合、その人の真価というものは、もう一変に値打ちが出るでしょうね。いや、あの人は、黙ってもう、それこそ、大したことも、言いもしなさらんのだけれども、あの人の信心は、素晴らしい。あれが本当だとあの人の言わっしゃることなら間違いがなかろうと言うことになって来るのです。そして、後に、私は人に認められなければならぬ。ね。神徳を得よ。人徳を受けよ。とこう仰っしゃる。神徳、人徳がやっぱり出来て来なければ出来ぬ。それをその第一、人徳の押し売りをする様なことでは、おかげは、頂けません。もう、第一それじゃ神徳がつきません。ね、
以前ですね、私、ここの庭のぐるりをここへ、下がらせて頂いてから、回らせて頂いてそしたら、その、ある方が、一生懸命草とっておんなさる。よう、ご苦労さん、もう、本当にここにもまだ、参ってきちゃなかですもん。上がって来ちゃなかけんで知らなかったんです。ようは、今日はん御用を頂こうと思うて填まって来てあるわけですよね。ね、それで、一生懸命御用頂きよんなさる。もう、日頃何もできませんけん。こげなこつなっとさせて頂くかな。というわけなんです。私は、その方を改めて見直す気が致しましたですね。私は、言うならばそういう様な生き方なんです。社会生活においてもそうなんです。ね、それをわざわざ隠しまわらんでもです。ただ、私は、いうならこうすることが本当なんだ。こうすることが神様が喜んで下さることだと言うことをです。たんたんとしてそれを、やっていけれるということ。おかげで、もう、ほんと見違えるようにきれいになりました。そういう人達の御用でなからなければ、真から垢ぬけしません。もう、ここんにきは、あんまりゴミがしとらんけんで、拭くかんで良かたいと言うごたることになって来るです。認めてただ、その認めてさえもらえば良か。人間に認めてさえもらえば良かと言った様な生き方であったら。ね、こうしたらはべっていこう。それこそ、申したままに、いうならどこまでも、清めて行こう。拭いて行こうと行った様なです。これは、それだけのことではありませんけれども、ね。まず私は神様に認められる私達にならなければいかん。そこに、神の機感にかのうた氏子と言うことになってくるのです。ね。私共がどうでも神の機感にかのうた氏子としてのおかげを頂きたい。まず、人間と身代と達者を私供一代の上にどうでも、頂いておきたい。ね。そして、私の様な生き方で行けばね、おかげを受けられるんだということをやはり、見せておかねばならぬ。聞かせておかねばならぬ。ね。それが三代続いたら家の一つの徳になる。ね。そして、いよいよ神の天地の機感ね。神の機感にかのうた。一家ということにならしてもらうのですよ。
今日は私はそういうところへですね、本気で、焦点において、一日の御用の中にですね、誰かに見てもらうこともいらぬ。誰かに聞いてもらうこともいらん。本当に神様だけがご承知だから、神様が見よんなさるから。神様が、聞いておって下さるんだからと言う様なです。生き方でね。神の機感にかなうための信心生活をですね、させて頂く。そこから、また、そういう様な一つの味わいを言うでしょうかね。人から、認められんでも本当に、神様から、喜んで頂くようなことが、一生懸命出来た。時なんかもうその後の味わいというのは、また、格別と。信心させて頂く者で、なければ、味わえないわいというものが必ず、体験として現れてくるでしょう。ね。それを日々続けていくところの生活。ね。そして、同時に自分の心の中に人にまず、認めさせよう。人に分かってもらおう。人にわからせようという様ないわばけちな考えがもし、皆さんの心の中にあったとするなら、そういう心では、もう本当にです。本気でです。そういうものは、自分の心からたたき出して行かねばいけませんです。それが、災いします。ね、そして、見かけぼうふらになってしまう。ああ、あの人達は、みんなもう、見かけ悪か。ああ、もう口ばっかり。だからどういうことを言うても通じない。真実がない。ね。ですから、どうでも、一つ真実の人と言うのは、神様の機感にかのうたあり方の人のことを真実の人をいうのじゃなかろうかと思うです。ね、それが自分一代だけではない。子供や孫にも伝わって行く様なおかげを頂いて人間と身代と達者がです。いよいよ年勝り代勝りにおかげ頂いていけれる様な一つの基礎を皆さんの代におかげを受けておかねばならないというふうに思うです。どうぞ。